第1章

1 靴を作らない靴職人!?

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ある水曜日の午後、あおいさんはリッチー先生のオフィスにいた。

10年間勤務した会社を退職し、コーチとして独立してそろそろ1年になる。

コーチとは言っても、カウンセラーの仕事やキャリアに関する相談にも応じている。

一体自分の本業は何なのか、ときどき自分でも分からないときがある。

とりあえず「何の仕事をしているんですか?」と聞かれたら「コーチです。」と答えるようにしている。

コーチ…。

まだ日本ではスポーツ関係の仕事と誤解されることが多いこの職業に、あおいさんは人生を賭けていた。

 

とにかくクライアントを作らなければ。

独立して初めの半年間は、集客システムの構築とお試しセッションに多くの時間を割いた。

その甲斐があったのか、少しずつクライアントの数は増えていった。

自分の経験を考慮して1セッション5,000円からスタートしたが、正直この価格では安いと感じている。

そろそろ単価を上げて収益を確保していきたいと考えているのだが…。

 

実は、あおいさんはある悩みを抱えていた。

クライアントの数が増えるにつれて、当日にキャンセルしたり、セッション予定日時を変更してくるクライアントが出てきた。

中途解約もあるが、申込後すぐに契約をキャンセルされることもある。

お試し無料セッションの後に契約できないときは結構へこんだ。

それだけではない。

コーチングの結果に不満を持っていると思われるクライアントも出てきている。

 

何かがおかしい。

ちゃんと契約書を使っているはずなのに、なぜこんなことが起きるのか。

誰でも気軽に始められて、利益率の高いビジネスのはずなのに。

もしかして、自分が知らないだけで、本当は知っていなければならないことがあるのではないか…。

考えれば考えるほど悩みが深くなっていく。

 

中でも一番気になっていることはお金のことだ。

予定が変わってしまうと収益が安定しない。

途中で解約されてしまうと返金のことでクライアントと揉めることもある。

クライアントから返金を迫られると応じないわけにはいかない。

でも、返金すると売上が減ってしまう。

返金って必ずしなければいけないものなんだろうか。

そもそも、コーチングの契約はどうあるべきなんだろうか。

考えても答えは出ないのに、お金だけは出ていく。

個人事業主として仕事をしていると、会社員時代のように毎月決まった収入を確保できない。

そんなことはもちろん分かっているのだが、自分の不安がコーチングに影響するのではないかと心配し始めている。

 

クライアント数が増えて順調だと思っていたところに、当初は考えもしなかった悩みが出てきてしまった。

プロとしてやっている以上「人間だもの」は言い訳にならない。

「悩み多きコーチ」なんてカッコ悪い。

「自分をコーチングできないコーチ」なんて、まるで「靴を作らない靴職人」ではないか。

でも本当はコーチも悩みを抱えている。

仕事のことだけではない。

恋愛や結婚だって悩ましい。

付き合って5年になる彼は未だに結婚しようとしない。

「まだ結婚しないのか?」

親からのプレッシャーは年々厳しさを増している。

それなのに、彼は今週末もソロキャンプに行くことを予定している。

最近彼のことを考えると無性にイライラする。

気が付くと牛のようにモーモー言っている。

どうしたものかと考えていたところ、偶然リッチー先生のブログを見つけた。

 

リッチー先生はちょっと変わった人だ。

行政書士として、コーチ・キャリアコンサルタント・カウンセラーのための契約書を作成する数少ない専門家らしい。

自身もNLPプロフェッショナルコーチとしてコーチングを行ったりしている。

また社会保険労務士でもありキャリアコンサルタントでもある。

聞くところによると、この2つの国家資格をフル活用して厚生労働省の助成金ビジネスで大活躍したとかしないとか。

この人も一体本業が何なのか分からないが、ミャンマー企業と提携して外国人のキャリア支援の仕事をしたり、Laughter Yogaで意味もなく笑っていたりするらしい。

ただ人生の話になると「くたばれニーチェ!永遠回帰はスピニングファイヤーだ!」と語り出すあたりが少々残念なところ。

最近のお気に入りはポケトーク、翻訳だけでなく英語の発音チェックにも使っている。

ただ絶望的に発音が悪く、とんでもない意味に訳されては1人でゲラゲラ笑っている。

あおいさんは「この人なら私の悩みを解決してくれるに違いない」、そう確信して面談の予約を入れたのだが…。

大丈夫だろうか…

心配である。

 

噂をすれば影。

リッチー先生があおいさんの前に現れた。